2007年01月27日 (土) | 編集 |
NHK 中国語会話でも有名な相原茂先生のコラムを読んでいて、ちょっと考えさせられました (゚-゚;) 将来の日本を考える上でも少しヒントになるような気がしました。。。 宜しければどうぞ・・・
『 MAO的コラム 中国語から考える 第19回−相原茂 』
小中学生がいじめを苦に自殺する。
社会問題として取りざたされ、死んだ人への同情があつまる。日本では死者をむち打つことはしない。日本ではわが子の死の責任を追及して親が裁判をおこすようになった。
中国では自殺をすると、親が責められる。家庭での教育がなっていない、と責められる。そんな子に育てたのは親だといわれる。だから中国の親は子供が自殺したら自分を責める。
日本では社会や学校に目が行くが、中国では「そんな弱い子を育てた」家庭教育に目が向けられる。中国の親は、子供がいじめられたら「どうして反論しないの?」「言い返さないの?」とハッパをかける。
自殺と聞いて、思い起こす言葉がある。
「身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは、孝の始めなり」(=“身体髪膚、受之父母、不敢毀傷、孝之始也。”) これは『孝経
』にある言葉で、儒教の教えであるが、私はこれ以上の普遍性をもつ自殺予防の言葉を知らない。自分の身体は、髪の毛からツメの先まで、どれ一つとして自分のものではない。すべて親からの授かりものである。大切に扱い傷つけたりしてはいけない。
私が知っているぐらいだから、教養ある中国人ならたいてい心得ている教えであろう。この言葉はまた、入れ墨やピアスなどもってのほか、と主張している。髪を染めることすら、この教えが脳裏に浮かび、いっとき躊躇するだろう。また女性がわきの下を脱毛することなど、日本では常識だが中国では自然のままにしておく方が普通だ。
これらすべての大本をなすのが「身体髪膚、これを父母に受く、あえて毀傷せざるは、孝の始めなり」という一句だ。こういう言葉を日本では親が口にしなくなった。単に「いじめられても自殺なんかしてはいかん」という言い方はあまりに直截すぎて、人生を渡ってゆく上での普遍的な力にならない。「身体髪膚、……」の響きに比べて長く心に残らないのである。
我々は、心に残る言葉を、親や友人のアドバイスレベルを越える言葉を、社会に伝えていかなければならない。私もそうだが、団塊の世代の一つの欠点は、照れくさがって率先して範を垂れようとしなかったことだ。個の感想を越えた規範をあえて口にすべきだった。
日本の死生観も影響している。われわれは死んだ人を美化する傾向がある。中国では「死んだら終わりだ。何もない。死ぬのは無駄死にだ」という、現世主義的な考えが支配的だ。
死にたいと思う時、人は自分の死後の周囲の反応を想像する。いい人だったとか、みんなが自分のために涙を流してくれる場面や、そこまで追いつめてしまったのかと、周囲が反省しているシーンをきっと想像する。そうすると、おのが死を美化し、センチメンタルな思いにかられる。これは甘美な誘惑だ。日本ではマスコミが死後の想像を映像として流してくれる。だから日本では自殺がすぐに流行現象になりやすい。結果として自殺を助長している。もっとそっけなく扱えばいい、そう思っている人は多いが、誰も言い出せない。
中国人も自殺はする。だが、彼らの自殺は、親や親戚の期待に応えられなくて、重荷のあまり自殺する場合が多いと聞いた。成績が振るわない。よい会社に就職できなかった。親の期待がプレッシャーになる。親の顔を思い浮かべるが故の自殺である。親よりも先に子供が死ぬことは不幸の最たるもので、中国語で、白髪人送黒髪人。(髪の白い人が髪の黒い人を見送る)という。あまりに哀れで、親が遠くに居れば、子の死を知らせないこともある。
もう一つ、これは『論語
』の一節。父母在、不遠遊、遊必有方。(両親が健在であれば、遠出をしない、する場合は必ずしっかりとした行き先があること)
自殺、という言葉から私が思いついた三つの言葉は、奇しくもすべて親と子に関わるものであった。現在の日中両国を比べると、親子関係にもっとも違いが見られるのかもしれない。つまり日本は、親と子のきずなが、どこかねじれ、希薄になっているのではないか。( from searchina.ne.jp ) ⇒ FC2 排行傍 ⇒ 部落格 排行傍
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『 MAO的コラム 中国語から考える 第19回−相原茂 』
小中学生がいじめを苦に自殺する。
社会問題として取りざたされ、死んだ人への同情があつまる。日本では死者をむち打つことはしない。日本ではわが子の死の責任を追及して親が裁判をおこすようになった。
中国では自殺をすると、親が責められる。家庭での教育がなっていない、と責められる。そんな子に育てたのは親だといわれる。だから中国の親は子供が自殺したら自分を責める。
日本では社会や学校に目が行くが、中国では「そんな弱い子を育てた」家庭教育に目が向けられる。中国の親は、子供がいじめられたら「どうして反論しないの?」「言い返さないの?」とハッパをかける。
自殺と聞いて、思い起こす言葉がある。
「身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは、孝の始めなり」(=“身体髪膚、受之父母、不敢毀傷、孝之始也。”) これは『孝経
私が知っているぐらいだから、教養ある中国人ならたいてい心得ている教えであろう。この言葉はまた、入れ墨やピアスなどもってのほか、と主張している。髪を染めることすら、この教えが脳裏に浮かび、いっとき躊躇するだろう。また女性がわきの下を脱毛することなど、日本では常識だが中国では自然のままにしておく方が普通だ。
これらすべての大本をなすのが「身体髪膚、これを父母に受く、あえて毀傷せざるは、孝の始めなり」という一句だ。こういう言葉を日本では親が口にしなくなった。単に「いじめられても自殺なんかしてはいかん」という言い方はあまりに直截すぎて、人生を渡ってゆく上での普遍的な力にならない。「身体髪膚、……」の響きに比べて長く心に残らないのである。
我々は、心に残る言葉を、親や友人のアドバイスレベルを越える言葉を、社会に伝えていかなければならない。私もそうだが、団塊の世代の一つの欠点は、照れくさがって率先して範を垂れようとしなかったことだ。個の感想を越えた規範をあえて口にすべきだった。
日本の死生観も影響している。われわれは死んだ人を美化する傾向がある。中国では「死んだら終わりだ。何もない。死ぬのは無駄死にだ」という、現世主義的な考えが支配的だ。
死にたいと思う時、人は自分の死後の周囲の反応を想像する。いい人だったとか、みんなが自分のために涙を流してくれる場面や、そこまで追いつめてしまったのかと、周囲が反省しているシーンをきっと想像する。そうすると、おのが死を美化し、センチメンタルな思いにかられる。これは甘美な誘惑だ。日本ではマスコミが死後の想像を映像として流してくれる。だから日本では自殺がすぐに流行現象になりやすい。結果として自殺を助長している。もっとそっけなく扱えばいい、そう思っている人は多いが、誰も言い出せない。
中国人も自殺はする。だが、彼らの自殺は、親や親戚の期待に応えられなくて、重荷のあまり自殺する場合が多いと聞いた。成績が振るわない。よい会社に就職できなかった。親の期待がプレッシャーになる。親の顔を思い浮かべるが故の自殺である。親よりも先に子供が死ぬことは不幸の最たるもので、中国語で、白髪人送黒髪人。(髪の白い人が髪の黒い人を見送る)という。あまりに哀れで、親が遠くに居れば、子の死を知らせないこともある。
もう一つ、これは『論語
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